常磐ハワイ

wikiより抜粋

 

設立過程
 石炭業界は、朝鮮戦争に伴う1950年代前半の朝鮮特需期には需要増から一時好況となったものの、1950年代後半には労働運動の盛り上がりによる賃金上昇から、低価格な輸入石炭との競合が露呈し、さらに1962年10月の原油輸入自由化によってエネルギー革命が加速して、構造不況に陥った。
 常磐炭鉱(後の常磐興産)での整理解雇は、1955年から始まった。
 そこで炭鉱労働者やその家族の雇用創出、さらに同社の新たな収入源確保のため、炭鉱以外の新規事業を立ち上げることになり、『日本人が行ってみたい外国ナンバー1』だった「ハワイ」に着目。
 炭鉱で厄介物扱いされていた地下から湧き出る豊富な常磐湯本の温泉水を利用して室内を暖め、「夢の島ハワイ」をイメージしたリゾート施設「常磐ハワイアンセンター」の建設を計画した。しかし、社内でも先行きを疑問視する声が強く、炭鉱の最前線にいた社員たちの転身にも根強い反対があり、「10年続けば御の字」という悲観的な見方すらあった。最終的には当時の常磐湯本温泉観光社長(常磐炭鉱副社長兼務、後に社長)の中村豊が押し切る形で事業を進めた。
フラダンス、タヒチアンダンス、ポリネシアンダンスのダンサーは、自前で設立した常磐音楽舞踊学院から人材を供給した。

 

常磐ハワイアンセンター
 1964年に運営子会社として常磐湯本温泉観光株式会社を設立し、1966年にオープン。高度経済成長を遂げる日本に於いて、1964年に海外旅行が自由化されたものの、庶民には高嶺の花という時代であり、開業前の悲観論を尻目にホテルが当時破格の1泊3千円以上ながら東京方面から多くの観光客を集め、大型温水プールを中心にした高級レジャー施設として年間120万人強の入場者を集めた。年間入場人員は、1968年度には140万人を突破し、1970年度には155万3千人となりピークに達した。
 1971年のニクソン・ショックによりブレトン・ウッズ体制が崩壊してスミソニアン体制に移行し、1アメリカ合衆国ドル=360円から308円に切り上げされ、1973年には変動相場制移行とオイルショックによって輸出に依存していた日本の高度経済成長は終焉を迎えた。
当センターの入場人員も日本の経済状況に合わせて減少し、1975年度には年間110万人にまで落ち込んだ。ハワイ州オアフ島出身のアグネス・ラムの人気もあってか、1976年度はやや入場人員が増加したものの、1977年度以降は年間100万人から多くても年間110万人程度で横ばい状態が続いた、この時期、毎週日曜日および祝日にはアイドル歌手や演歌歌手の歌謡ショーが開催されていた。1984年度には初めて営業赤字を計上した。
 

1988年3月24日に常磐自動車道がいわき中央ICまで全線開通し、バブル景気に沸く首都圏と直結すると、1988年度に一気に年間140万人超まで入場人員が増加した。これを機に総事業費50億円をかけてリニューアルを始めることになった。

 

スパリゾートハワイアンズ       
 1990年、オープン25周年を機に「常磐ハワイアンセンター」を「スパリゾートハワイアンズ」に改名し、「スプリングパーク」をオープンした。同年度および翌1991年度は年間140万人超の入場人員があったが、バブル崩壊で1992年度には年間120万人台にまで減少した。
 一方、1985年のプラザ合意により急速な円高が発生してバブル景気期には海外旅行が普及するが、1994年には円相場が1米ドル=100円の大台を突破して円高が進行し、さらに同年の航空法改正でZONE PEX運賃が導入されて格安航空券が一般化した。すると「本当のハワイに行った方が安い」とまで言われるようになり、同年度以降、年間110万人前後で横ばい状態になった。1994年度に再び営業赤字を計上した。
 1997年、日本一の大露天風呂「江戸情話 与市」をオープンした。すると、同年度に年間120万人を回復し、ここから右肩上がりに入場人員の増加が続くことになる。これは、前身の常磐ハワイアンセンターから引き継いだ「ハワイ」「南国」というコンセプトに加え、海水浴と比べて日焼けの心配が低い屋内プールや美白の効能があるとされる温泉を備えた当施設が美白を求める女性の需要に合致し、さらに東京や仙台などからの無料バスによる送迎サービスを行うなどの集客努力が功を奏したものと考えられている。また、2000年にアクアマリンふくしまが開館して人気施設となり、いわき市内で回遊性が生まれたことも影響したと考えられている。2005年度には常磐ハワイアンセンター時代の1970年度以来の年間利用者数150万人を達成した。
 2006年9月23日から、日本映画『フラガール』が全国公開されたのを機に、「ワイワイ・オハナ」「アロハタウン」「フラ・ミュージアム」など次々オープンした。すると、翌2007年度には過去最高の年間161万1千人が入場し、かつ、初の年間160万人超を達成した。

 

東日本大震災
 2011年3月11日14時46分に発災した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では、当施設のあるいわき市で震度6弱を観測。施設内で死者や重傷者が出なかったものの、施設内の建物に大きな被害が出た。当初早期の再開を目指したが、丁度1ヵ月後の4月11日には福島県浜通り地震が発生。市内南部の井戸沢断層に加え、当館直下に存在した湯の岳断層が同時多発的にズレ動き、東北地方太平洋沖地震の本震よりも深刻な被害を出した。さらに、近隣の自治体である福島県広野町での福島第一原子力発電所事故の被災者を二次避難先扱いで受け入れていたことから、半年にわたる休業を余儀なくされた。
 この困難を常磐炭鉱が次々と閉山していた頃の困難になぞらえ、また、震災復興への願いを込め、46年ぶりとなる全国キャラバン「フラガール全国きずなキャラバン」を日本各地で開催した。以降も、日本各地で自然災害が発生するたびに、被害の大きかった地域で同様のイベントを実施している。
 なお、上記の事情から2011年の年間利用者は40万人を切ったが、2012年2月8日に全面営業を再開。年間利用者は2012年度に140万人に回復し、翌2013年度には150万7千人となった。

 

新型コロナウイルスによる一部施設の臨時休園
 2020年3月に「新型コロナウイルス感染症対策本部」の発表と同年3月4日〜3月23日までの間、いわき市内の小中学校を臨時休校すると発表したことを受け、臨時休校する3月4日〜23日まで日帰り施設の臨時休園を余儀なくされた。宿泊施設のバイキングも、マスクと手袋をしたスタッフがあらかじめ取り分けて渡す形式に変更するなど制限がなされた。3月24日に日帰り施設は営業時間を10時〜17時までに短縮したうえで営業を再開したが、フラダンスショーは自粛したままとなっている。しかし、4月7日に緊急事態宣言が7都府県(東京都・大阪府・神奈川県・千葉県・埼玉県・兵庫県・福岡県、4月16日からは全国に拡大)に出したことを受け4月8日から当面の間臨時休園を決めた。その後、5月25日に緊急事態宣言が全面解除してからも臨時休園を続けていたが、7月1日に約3か月ぶりに営業再開された(なお、宿泊施設の内、ウィルポートは営業を休止していたが9月10日に営業を再開し、クレスト館は現在営業休止中。)。8月の客数は前年比25%程度と低迷し、9月以降回復の兆しはあるものの状況は厳しいとしている。
 売り上げ及び入場客低迷を理由に、2021年3月を目途に東京本社が撤退、いわきへ吸収される方針。

トップへ戻る