感染症の歴史

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 病原微生物ないし病原体(マイコプラズマやクラミジアといった細菌、スピロヘータ、リケッチア、ウイルス、真菌、原虫、寄生虫)がヒトや動物のからだや体液に侵入し、定着・増殖して感染をおこすと組織を破壊したり、病原体が毒素を出したりしてからだに害をあたえると、一定の潜伏期間を経たのちに病気となる。これを感染症という。
 類義語として伝染病があるが、これは伝染性をもつ感染症をさしている。また、伝染性をもつ感染症の流行を疫病(はやり病)と呼んでいる。
 感染症の歴史は生物の出現とその進化の歴史とともにあり、有史以前から近代までヒトの疾患の大きな部分を占めてきた。感染症や疫病に関する記録は、古代メソポタミア文明にあってはバビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』にすでに四災厄のなかのひとつに数えられ、同時期のエジプトでもファラオの威光は悪疫の年における厄病神に比較されている。中国にあっても、紀元前13世紀における甲骨文字の刻された考古資料からも疫病を占卜する文言が確認されている。そしてまた、医学の歴史は感染症の歴史に始まったといっても過言ではない。感染症は、民族や文化の接触と交流、ヨーロッパ世界の拡大、世界の一体化などによって流行してきた。

 

 感染症の伝染性を発見したのは、イスラーム世界を代表する医学者でサーマーン朝出身のイブン・スィーナーであった。「医学典範(?b al-Q?n?n f? al-?ibb、The Canon of Medicine)」(1020年)において隔離が感染症の拡大を止めること、体液が何らかの天然物によって汚染されることで感染性を獲得することを記述している。ただし、その物質が病気の直接原因になるとは考えていなかった 。

 

 14世紀にナスル朝で活躍したイブン・アル=ハティーブはイベリア半島のアンダルス地方における黒死病(ペスト)の流行において、衣類・食器・イヤリングへの接触が発症の有無を左右していることを発見した。これを受けて、イブン・ハーティマ(Ibn Khatima、1369年 - ?)は「感染症は微生物がヒトの体内に侵入することによって発症する」との仮説を打ち立てた。この考えは、16世紀イタリアの修道士で科学者のジローラモ・フラカストロの著作『梅毒あるいはフランス病』(1530年)や『伝染病について』(1546年)により、ルネサンス期のヨーロッパにも広く受け入れられた。フラカストロは伝染病のコンタギオン説(接触伝染説)を唱え、梅毒(Syphilis)やチフス(typhus)という病名の命名者となった。

 

 病原体(病原微生物)について、それを人類が初めて見たのは、形態的には1684年のオランダのアントニ・ファン・レーウェンフックの光学顕微鏡による細菌の観察だといわれる。レーウェンフックの顕微鏡の改良により、細菌を肉眼で容易に観察できるようになった。

 

 1838年に細菌を意味するラテン語 "bacterium" が出現しており、病原体が現在のように判明してきたのは19世紀以降のことであって、フランスのルイ・パスツールやドイツのロベルト・コッホに負うところが大きい。パスツールは、病気の中には病原体によって生じるものがあることを証明し、狂犬病のワクチンを開発した。そしてコッホは、1875年、感染力のある病原体としての細菌である炭疽菌を、光学顕微鏡を用いた観察によるものとして初めて発見し、また、感染症の病原体を特定する際の指針として「コッホの原則」を提唱して近代感染症学の基礎となる科学的な考え方を打ち出した。

 

 エドワード・ジェンナー、ジョナス・ソーク、アルバート・サビンの3人はそれぞれ、天然痘ポリオに有効なワクチンを開発し、後にそれぞれを地球上から根絶、もしくはほぼ制圧するために大きな一歩を踏み出した。日本でも、北里柴三郎が1894年にペスト菌を、志賀潔は1898年に赤痢菌を発見している。なお、主な疫病菌の発見は以下の通りであり、19世紀後葉から20世紀初頭にかけての時期に集中している。

光学顕微鏡でも視認されえないウイルス(virus)の発見は、細菌よりも遅れ、1892年のロシアの植物学者ドミトリー・イワノフスキーによるタバコモザイクウイルスの発見が最初であった。

 

細菌による感染症は1929年に初の抗生物質であるペニシリンがイギリスのアレクサンダー・フレミングによって発見されるまで根本的な治療法はなく、ウイルスによる感染症に至っては患者自身の免疫に頼らざるを得ない部分が今なお大きい。
1935年、ドイツのゲルハルト・ドーマクは初の広域合成抗菌薬であるサルファ薬を開発、発表している。サルファ薬は、生物由来ではないため、抗生物質とはされない。抗生物質とサルファ薬の開発は、感染症治療に新しい地平を切り開いた。
抗生物質の普及や予防接種の義務化、公衆衛生の改善などによって感染症を過去の脅威とみなす風潮もみられたが、耐性菌の拡大や経済のグローバル化による新興感染症の出現など、一時の楽観を覆すような新たな状況が生じている。
こうして感染症(伝染病)は長い間、人びとのあいだで大きな災厄ととらえられてきており、今なおその脅威は人類社会に大きな影を投げかけている。災厄に対する人びとの対応は、歴史的・地域的にさまざまであったが、その一方で、人びとの行為・行動の背景となった疫病観、死生観、信仰、哲学、科学の発達などを考察することにより、人類の歴史や経済、社会のあり方への理解を深めることができる。

 

ペストはペロポネソス戦争のさなかの紀元前429年、篭城戦術を用いてスパルタ軍と対峙していたギリシャ最大のポリス、アテナイ(アテネ)を感染症の流行が襲い、多数の犠牲者を出した。この疫病は、かつて「アテナイのペスト」と呼ばれていた時期もあったが、記録に残る症状の分析と検討により、今日では痘瘡(天然痘)または発疹チフス、あるいはそれらの同時流行と考えられており、ペスト説は否定されている。なお、古代ギリシャ最大の民主政治家として知られ、アテナイにおいてペロポネソス戦争を主導したペリクレスもこの疫病で死亡しており、この戦争でのアテナイの敗北およびデロス同盟の解体を招いた。
なお、トゥキディデス著『戦史』によれば、「アテナイのペスト」はペロポネソス戦争時に流行したため、アテナイでは敵のスパルタ側が貯水池に毒を投げ込んだという噂がながれたという。

 

記録に残る歴史的な感染症の流行のうち、現代医学で言うところのペストと同じ症状と推定される感染症の最初の流行は、542年から543年にかけてユスティニアヌス1世(在位527年-565年)治下の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)で流行したペストであり、現代の病態分類では腺ペストと推定されている。
東ローマ皇帝ユスティニアヌス自身も感染したため「ユスティニアヌスの斑点」ないし「ユスティニアヌスのペスト」と呼ばれた。エジプトのペルーシウムからパレスティナ地方へ、さらには帝都コンスタンティノープルへと広がって多くの死者が発生し、人口の約半数を失って、帝国は一時機能不全に陥るほどであったという。

 

542年には旧西ローマ帝国の領域に侵入し、ブリテン島周辺には547年に、フランスへは567年に広がって、ヨーロッパ、近東、アジアにおいて最初の発生から約60年にわたって流行し続けたと記録されている。ユスティニアヌス自身は感染したものの軽症で済み、数ヶ月で回復したといわれている。コンスタンティノープルでは、流行の最盛期には毎日5,000人から10,000人もの死亡者が出て、製粉所とパン屋が農業生産の不振により操業停止に陥ったとさえいわれている。

 

一説によれば、ペスト流行による東地中海沿岸地域の人口の急減のために「東ローマ帝国による統一ローマの再建」というユスティニアヌスの理想は挫折を余儀なくされたのに対し、アルプス山脈以北の西ヨーロッパ世界はいまだ交通網が未発達で、ゲルマン民族大移動以後の荒廃もあって自給自足経済の要素が強く、ペストの流行が相対的に軽くすんだために、それ以降の発展が可能になったともいわれている。

 

14世紀のヨーロッパで猛威をふるったペストは、感染すると、2日ないし7日で発熱し、皮膚に黒紫色の斑点や腫瘍ができるところから「黒死病」(Black Death)と呼ばれた。カナダ出身の歴史家ウィリアム・ハーディー・マクニールによれば、「黒死病」は、中国の雲南省地方に侵攻したモンゴル軍がペスト菌を媒介するノミと感染したネズミを中世ヨーロッパにもたらしたことによって大流行したものである。ただし、科学史家の村上陽一郎によって中東起源説も提起されている。

 

ペストは、1320年頃から1330年頃にかけては中国で大流行し、ヨーロッパへ上陸する前後にはマムルーク朝などイスラム世界でも猛威をふるっている。この病気が14世紀のヨーロッパ全体に拡大したのは、モンゴル帝国によってユーラシア大陸の東西を結ぶ交易が盛んになったことが背景になっている。当時、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサなどの北イタリア諸都市は、南ドイツの銀、毛織物、スラヴ人奴隷などを対価とし、アジアの香辛料、絹織物、宝石などの取引で富を獲得していた。こうしたイスラームとヨーロッパの交易の中心となっていたのは、インド洋、紅海、地中海を結ぶエジプトのアレクサンドリアであり、当時はマムルーク朝が支配していた。

 

1347年10月、ペストは、中央アジアからクリミア半島を経由してシチリア島に上陸し、またたく間に内陸部へと拡大した。コンスタンティノープルから出港した12隻のガレー船の船団がシチリアの港町メッシーナに到着したのが発端といわれる。ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミに寄生し、そのノミによってクマネズミが感染し、船の積み荷などとともに、海路に沿ってペスト菌が広がったのではないかと推定されている。ペストはまず、当時の交易路に沿ってジェノヴァやピサ、ヴェネツィア、サルディーニャ島、コルス島、マルセイユへと広がった。1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わり、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった。正確な統計はないが全世界で8500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2にあたる約2000万から3000万人前後、イギリスやフランスでは過半数が死亡したと推定されている。場所によっては60パーセントの人が亡くなった地域もあった。

 

この疫病がヨーロッパに到達した数か月ののち、ローマ教皇クレメンス6世は、当時のカトリック教会の総本山のあったアヴィニョンより逃亡したが、そのいっぽうで教皇の侍医長であった外科医ギー・ド・ショーリアックはアヴィニョンにとどまる勇気を示している。また、腺ペストに特徴的なリンパ節の腫瘍は「腫れ物」と称され、人類のみならずイヌやネコ、鳥やラクダ、ライオンさえをも苦しめた。
このときのペストの流行ではユダヤ教徒の犠牲者が少なかったとされているが、ユダヤ教徒が井戸へ毒を投げ込んだ等のデマが広まり、ジュネーヴなどの都市では迫害や虐殺の対象となった。ユダヤ教徒に被害が少なかったのはミツワーにのっとった生活のためにキリスト教徒より衛生的であったという説がある一方、実際にはゲットーでの生活もそれほど衛生的ではなかったとの考証もある。

 

黒死病は、ヨーロッパの社会、特に農奴制(領主の側からみれば荘園制)に大きな影響をおよぼした。農村人口の激減はかえって封建領主に対する農民の地位を高めることとなった。たとえば、イギリスでは労働者の不足に対処するため、国王エドワード3世が1349年にペスト流行以前の賃金を固定することなどを勅令で定めている。それ以外にも、領主は地代を軽減したり、農民保有地の売買を認めるなど、農民の待遇改善に努力するようになった。

 

一方では、労働力不足を経済外的な強制力で補おうとする領主による封建的反動もおこっている。フランス北東部では、1358年に百年戦争とペストの流行による農村の荒廃、領主の農奴制強化に対する反抗などを背景としてジャックリーの乱が起こり、また、イングランドでも1381年にワット・タイラーの乱が起こっており、いずれも、当時の封建反動に抵抗して起こった農民反乱であった。
イングランド、フランス両国においては百年戦争によって封建領主が没落するいっぽう王権の伸張がはかられ、中央集権国家へと脱皮していった。聖職者を失った教会も混乱し、人手不足による賃金の急騰、ヨーロッパ全体における戦争の停止など「黒死病」の政治的・社会的影響は多岐にわたった。

 

また当時は、黒死病が蔓延したことを、神が下した罰ととらえ贖罪のため身体に鞭をあてて各地を遍歴する行者も多数あらわれ、医師のなかには、腫れ物を切開したり、毒蛇の肉を薬と称して与えたり、また、予防として香草や酒精を用いることを勧める者も少なくなかったという。免疫をつけるために便所や下水にかがみこんで悪臭を吸い込もうとする人びとまであらわれた。「メメント・モリ(memento mori, 死を思え)」という標語が流布し、どのような態度や振る舞いをとったら無事に天に召されるかを説いた「往生術」についてもさかんに著作がなされた。黒死病の流行は、「死の舞踏」はじめ絵画や文学のテーマにも大きな影響をあたえたのである。

 

ルネサンス初期の著名な文学者ジョヴァンニ・ボッカッチョが1349年から1353年にかけて著した『デカメロン』(十日物語)は、「さて神の子の降誕から、歳月が、1348年目に達したころ、イタリアのすべての都市の中ですぐれて最も美しい有名なフィレンツェの町に、恐ろしい悪疫が流行しました。ことの起こりは、数年前東方諸国に始まって無数の生霊を滅ぼしたのち、休止することなく次から次へと蔓延して、禍災(わざわい)なことには西方の国へも伝染して来たものでございました。」で書き出されており、ペストの流行についてふれている。
『デカメロン』は、ペストを逃れて郊外に住んだフィレンツェの富裕な市民男女10人が、10日間にわたり、1日1話ずつ語り合うという設定で著されており、社交・機知・ユーモア・エロスに富む人文主義の傑作とされているが、ペストの恐怖からの心理的逃避が背景となっている。また、フィレンツェの詩人で人文主義者ペトラルカが思いを寄せた少女ラウラもペストのために命を失っている。
前掲マクニールに師事したジョン・ケリーは、黒死病の拡大に重要な役割を果たしたのは、13世紀にモンゴル人がユーラシア大陸に巨大な帝国(モンゴル帝国)をつくりあげたことであると述べ、これにより、広い範囲での貿易や旅行が可能になってジャムチ(駅伝制度)など通信網の発達が格段に進んだことに起因するとの見解を表明している。

 

14世紀の黒死病は、今日まで腺ペストとみなされ、ネズミが媒介するペスト菌により起きたものと考えられてきたが、リヴァプール大学のクリストファー・ダンカン(動物学)とスーザン・スコット(社会歴史学)は、キリスト教会の古記録や遺言、当時の日記などを詳細に調べて検討し、2004年に『黒死病の再来』("Return of the Black Death")を著し、黒死病は腺ペストではなく動物由来感染症による出血熱ではなかったかとの異論を唱えており[9]、反響を呼んでいる。しかし、ケリーはDNA鑑定の結果などをもとにダンカンらの見解を退け、黒死病はペストの大流行であったと結んでいる。

 

その後も、ペストは何度か流行しているが、17世紀は、14世紀とともに小氷期によりヨーロッパの気候が寒冷化し、ペストが大流行して飢饉が起こり、英蘭戦争や三十年戦争をはじめとする戦乱の多発によって人口が激減したため、「危機の時代」と呼ばれた。いっぽう、中国の歴史地理学者曹樹基によれば、16世紀から17世紀にかけての明末清初期の華北では、合計1000万人がペストで死亡し、人口動態の面でも大変化があったとしている。

 

ペスト菌の存在がわからなかった時代には大流行のたびに原因が特定の人びとにおしつけられ、魔女狩りが行われたり、特にユダヤ教徒をスケープゴートとして迫害する事件が続発した。清教徒革命を経て王政復古後のロンドンで1665年に流行したペストでは、およそ7万人が亡くなっており、のちに『ロビンソン・クルーソー』を刊行して有名になったダニエル・デフォーは、『疫病の年』("A Journal of the Plague Year", 1722年)を著して当時の状況を克明に描写している。

 

ペストはこれまでに3度にわたる世界的流行をみている。第1次は、6世紀の「ユスティニアヌスのペスト」に始まって8世紀末までつづいたもの、第2次は、14世紀に猖獗をきわめた「黒死病」から17世紀末にかけてのもので、オスマン帝国では19世紀半ばまでつづいた。そして第3次は、19世紀末から現在までつづくものである。

 

19世紀末、中国を起源とするペストが世界中にひろがった。これは、雲南省で1855年に大流行した腺ペストを起源とするものであり、1894年(明治27年)の香港での大流行をきっかけとして世界的に拡大した。ロベルト・コッホに師事した北里柴三郎は日本政府により香港に調査派遣され、腺ペストの病原菌を共同発見した。同じ年のほぼ同時に、パスツール研究所の細菌学者で、スイスとフランスで活躍した医師アレクサンダー・イェルサンもペスト菌を発見し、これを発表した。こうして、ペストの原因がはじめて確定された。

 

 

こののち、北里の研究により腺ペストを治す方法は抗血清によって確立されたが、出血熱に関してはいまだ有効な治療法が確立されていない。
このときの中国発の腺ペストは、20世紀初頭、中国の東部沿岸地域や台湾、日本、ハワイ諸島をはじめ、さらにアメリカ合衆国、東南アジアから南アジアの各地にも広がった。

 

ペストの世界的な広がりの背景にあったのは、植民地主義の展開のもとでなされた交通体系の整備や商品流通の活性化、人間の移動などにより互いに各地が緊密な関係をもつにいたったことがあげられる。その一方で、感染症の有無によって「清潔」「不潔」の観念が生じ、また、その観念が一般化して、中国人に対する差別的な検疫や入国制限などもおこなわれた。1902年(明治35年)、東京・横浜地方でもペストが発生したため、役所がネズミ1匹を5銭(のち3銭)で買い上げるという措置を講じ、媒介者たるネズミの駆除に乗り出している[18]。ネズミの買い上げは、横浜市の場合、市役所の衛生課、衛生組合事務所、警察署、巡査派出所、巡査駐在所が管轄しており、当時の『国民新聞』によれば1905年(明治38年)3月の時点ですでにネズミ買い上げ金総計が4万円を突破している。

 

1910年から翌1911年にかけては、清朝末期の満州で肺ペストが流行した。ロシア帝国と日本は、ペスト対策の実施を口実として満州進出の拡大を企図するが、清朝政府は1911年、奉天で国際ペスト会議(奉天国際鼠疫会議)を開き、日露に限らずアメリカ合衆国やメキシコ、英・独・仏・伊・蘭・墺など数多くの外国代表をその会議に招くことで日露両国の影響力の低減をはかった。これは、帝国主義のもと、感染症とその対策が政治問題化した好例である。

 

第3次の流行で最大の被害を受けた国はインドであった。第二次世界大戦までに死亡者は1200万人以上に達したといわれる。また、インドでは1994年にもペストが発生し、パニックが起こるほどであった。日本では、明治になって国外から侵入したのが初のペスト流行であるとされている。第二次世界大戦後はしばらくのあいだ流行は沈静化していたが、1960年代のヴェトナムでペストが大流行し、死者が年間1万人に達する年もあったといわれる。ベトナム戦争等による社会秩序の混乱が伝染病の蔓延を促進した典型例といわれる。

 

なお、アルベール・カミュによって、ペストに襲われたアルジェリアのオラン市を舞台とした小説『ペスト』が発表されたのは1947年のことであった。

 

歴史上では「レプラ」、「らい病」などとよばれてきたハンセン病は、らい菌によって引き起こされる感染症である。感染力は弱く、進行も遅い病気で、皮膚と末梢神経が冒される。白い斑点が皮膚上に現れるほか、患部が変形する。顔面が変形したり、指が欠損するといった症状を引き起こすために、世界史上では、感染力が弱く致死性に乏しいという病気の実態以上に、人びとに恐怖感をもってとらえられてきた。
イエス・キリストがハンセン病患者に触れて治癒させた奇跡の記述が『新約聖書』にあり、イエスの絶対愛(アガペー)のあり方を物語っている。日本では、光明皇后が医療施設である「施薬院」を設置して、毎年諸国に命じて薬草を買い取り、らい病の予防と救護に力をそそいだといわれる。

 

ヨーロッパでは13世紀をピークとして流行し、各地に隔離施設ができた。
西暦300年ころ、ローマ教会が患者救済のため、ラザロの寓意よりなる「ラザレット」を設け、患者の救済・保護がはじまった。民族大移動などによってヨーロッパ中に広がったためヨーロッパ各地にラザレットが設けられた。中世ヨーロッパでは、ハンセン病は「ミゼル・ズフト」(貧しき不幸な病)と称された。教会によって「らい院」が多くの場所に設置されたが、フランク王国のカール大帝の勅令などによって、強制隔離政策もしばしば行われた。また、当時のローマ教会は旧約聖書にもとづく「ツアーラハト」の措置として「死のミサ」や「仮装葬儀」など祭儀的な厳しい措置が行われることも多かった。

 

いっぽう、1209年にアッシジのフランチェスコによって組織された「小さき兄弟の会」(フランシスコ会)はイタリア半島中部のアッシジに「らい村」を建設した。そこでは、1つの共同自治が目指され、聖書の精神にもとづく救済がおこなわれた。十字軍の東方遠征においては、ハンセン病に罹患した兵士を看護するためラザロ看護騎士団がパレスティナで組織され、イェルサレムのらい院では患者の救済がおこなわれている。なお、英邁で知られるエルサレム王国の国王ボードゥアン4世はハンセン病患者として知られる。

 

日本では、古代・中世にはこの病気は仏罰・神罰の現れたる穢れと考えられており、発症した者は非人身分に編入されるという不文律があった。これにより、都市では重病者が各地の悲田院や奈良の北山十八間戸、鎌倉の極楽寺などの施設に収容され、衣食住が供された。北山十八間戸や極楽寺は、「非人救済」に尽力した忍性らによって開かれた施設である。戦国武将大谷吉継はハンセン病患者であったことが知られ、面体を白い頭巾で隠して戦場に臨んだことはよく知られる。また、茶会での自らに対する石田三成の振る舞いに吉継が感激し、関ヶ原の戦いでは三成に味方をする決意をしたとされるエピソードも著名である。

 

江戸時代には、発症すると、家族が患者を四国八十八ヶ所や熊本の加藤清正公祠などの霊場へ巡礼に旅立たせることが多かった。このため、これらの地に患者が多く物乞をして定住することになった。旅費がない場合は単に集団から追放され、死ぬまで乞食をしながら付近の霊場巡礼をしたり、患者のみで集落をなして勧進などによって生活した。貧民の間に住むこともあり、その場合は差別は少なかった。横浜をはじめとする乞食谷戸(こじきやと)はその一例である。また、患者が漁にでるとマグロがよく獲れるという迷信が各地にあり、患者には漁業に携わる者も少なくなかった。

 

明治維新以降、近現代になると、そうした患者の寺社周辺などへの集住状態を解消すべく療養所への隔離政策が行われ、そのなかで「救らい」の名目で近世までとは異なった形での患者の迫害が生じた。1875年、らい菌の発見者であるノルウェーのアルマウェル・ハンセンが英文で初めて発表をおこない、そののち感染症としての感染力の弱さが明らかとなり、また、治療法が確立してからも患者や既に治癒して身体の変形などの後遺症を持つのみとなった元患者への強制隔離政策は続き、非人道的な人権侵害が行われた。2002年に、小泉純一郎首相が公式に謝罪し、治療法確立後も強制隔離をつづけた国の責任を認めて元患者との和解がようやく成立した。しかし、今もなお病気に対する正確な知識の欠如から、後遺症に対する差別に苦しむ人が多い。

 

コロンブス交換(Columbian Exchange)は、1492年ののち発生した東半球と西半球の間の植物、動物、食物、奴隷を含む人びとなど甚大で広範囲にわたる交換を表現する時に用いられる言葉で、1492年のクリストファー・コロンブスの新世界の「発見」にちなむ。その結果、トウモロコシとジャガイモは18世紀のユーラシア大陸できわめて重要な作物となり、ピーナッツとキャッサバは、東南アジアや西アフリカで栽培されるようになるなど、世界の生態系、農業、文化の歴史において重大な出来事となった。ただし、ここでは多くの感染症もまた交換されることとなった。

 

梅毒の原因には占星術が関係すると考えられた。
すなわち、コレラ、インフルエンザ、マラリア、麻疹、ペスト、猩紅熱、睡眠病(嗜眠性脳炎)、天然痘、結核、腸チフス、黄熱などが、ユーラシアとアフリカからアメリカ大陸へもたらされた。

 

免疫をもたなかった先住民はこれらの伝染病によって激減した。アメリカ大陸には、スペインやポルトガルをはじめとしてヨーロッパ各地から多くの植民者がわたったが、スペイン王室は植民者に先住民支配の信託を与え、征服者や入植者に対し、その功績や身分に応じて一定数のインディオを割り当て、一定期間使役する権利を与えるとともに、彼らを保護してカトリックに改宗させることを義務づけた。これがエンコミエンダ制である。

 

まもなく先住民(インディオ)を使役して鉱山で金や銀を掘り出し、カリブ海域ではサトウキビの栽培が始まった。どちらも現地の人びとのためではなく、ヨーロッパ大陸における需要のための生産であった。先住民は、過酷な労働条件と感染症のために激減し、深刻な労働力不足に陥った。これを補うため、ヨーロッパ人は黒人奴隷をアフリカ大陸に求めて奴隷貿易がはじまった。ここに西ヨーロッパ、西アフリカ、南北アメリカ大陸を結ぶ人とモノの貿易連鎖、いわゆる三角貿易が成立し、大西洋をはさむ4大陸のあいだに大西洋経済とよばれる世界システムが形成されていった。

 

いっぽう、アメリカ大陸より旧大陸にもたらされた感染症には、人獣共通感染症であるシャーガス病、性病として知られる梅毒、イチゴ腫、黄熱(American strains)がある。

 

梅毒は、元来はハイチの風土病だったのではないかと考えられ、コロンブス一行が現地の女性との性交渉によりヨーロッパにもち帰ったとされる。アジアへはヴァスコ・ダ・ガマの一行が1498年頃インドにもたらし、日本には永正9年(1512年)に中国より倭寇を通じて伝わったとされ、江戸時代初期には徳川家康の次男結城秀康も梅毒に罹患している。

 

日本で流行する前に琉球王国、とくにその花柳界で大流行し、古くから花柳界にいる人の罹患率が高かったので、梅毒は「古血」と称され、また、沖縄では梅毒患者のことを「ふるっちゅ」(古い人)と呼ぶようになった。なお、梅毒は、ヨーロッパ諸国も介入した16世紀のイタリア戦争を通じてヨーロッパ各地に広がったため「ナポリ病」と称することも多い。
「コロンブス交換」は、アメリカ合衆国の歴史学者アルフレッド・クロスビーによって唱えられた用語である。上述のように、それは、ヨーロッパとアメリカ大陸との相互の疫学的条件の均質化をうちに含んでいるが、これを、フランスのアナール学派に属する歴史家エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリは「細菌による世界の統一」という表現を用いて説明した。

 

ヨーロッパの疫病が新大陸で猛威をふるった顕著な例として、1545年から1548年にかけてのメキシコ(ノビスパニア)での大流行があり、このときメキシコ中央部では先住民(インディオ)の約8割が死亡したといわれる。征服から1世紀経ったのち、メキシコの先住民の人口は征服直前のわずか3パーセントにすぎなかったという試算もある。

 

梅毒の治療薬としては、化学療法を唱えたドイツのパウル・エールリヒとエールリヒの研究所で薬学実験を担当していた日本の医学者秦佐八郎が1910年に発見したサルバルサンという有機ヒ素化合物が有名であり、これは合成物質による世界最初の化学療法剤であった。また、サルバルサンの発見は、のちのペニシリン(1929年)等抗生物質や、サルファ剤(1935年)等の化学療法剤の発見をうながしたのである。

 

一般にはしかといわれ、麻疹ウイルスによって感染する。感染力はきわめて強く、高熱、咳、鼻水、全身性の発疹をともない、口中にコプリック斑と呼ばれる白い斑点ができる。日本でも古くから知られ、平安時代以降の文献にしばしば登場する「あかもがさ」は麻疹であろうと考えられている。正暦から長徳への改元のあった995年(正暦6年、長徳元年)に全国的な伝染病となって平安京を直撃、貴族も多数死亡して政治に混乱をきたした。

 

古来ほとんどの人が一生に一度はかかる重症の伝染病として知られ、かつては「命定め」とよばれて恐れられたため、全国各地に麻疹に関する民間信仰が伝わっている。富山県高岡市では「はしか」が流行すると九紋龍の手形の紙をもらい、「九紋龍宅」と書いて門口に貼って病除けにした伝承がのこる。神奈川県横浜市や大和市、藤沢市に点在する鯖神社(左馬神社、佐婆神社とも)を一日で巡る「七さば巡り」をおこなうと「はしか」や百日咳の病除けになるといい、愛知県や三重県ではアワビの貝殻を戸口につるして「はしか除け」をしたという。江戸時代の庶民にとって、地震や火事とともに怖れられたのが感染症であったが、とくに疱瘡(天然痘)・麻疹(はしか)・水疱瘡(水痘)は「御役三病」と呼ばれて恐怖された。

 

世界保健機関(WHO)では2015年3月27日、日本を麻疹の「排除状態」にあると認定した。「排除状態」は、日本に土着するウイルスによる感染が3年間確認されない場合に認定される(2014年の流行などは、日本国外から持ち込まれたウイルスのため、判断に影響していない)[27]。ただし近年外国人観光客などにより多くウイルスが持ち込まれる事態となっており、再びウイルス汚染国として認定される危機にある。

 

天然痘は、有史以来、高い死亡率、治癒しても瘢痕を残すことから、世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症である。痘瘡ともいい、天然痘ウイルスによる高熱、嘔吐、腰痛があり、全身に発疹する。すでに1万年前にはヒトの病気であったらしい。

 

天然痘で死亡したと確認されている最古の患者は古代エジプトの第20王朝のファラオラムセス5世であり、ミイラの頭部に天然痘の痘庖があることを確認している[28]。彼は紀元前1157年に死亡したとみられる。
165年のパルティア遠征中のローマ軍のなかで発生し、こののちローマ帝国内で流行したといわれる伝染病は、こんにちでは天然痘であると考えられており、これによりローマは深刻な兵力不足に陥って、国力衰亡の原因のひとつとなった。
天然痘は4世紀以来、アジア各地で流行している。中国では、ジェンナー(後述)による種痘(牛痘)が試みられる前から、発疹の瘡蓋(かさぶた)を用いた人痘がさかんにおこなわれていた。

 

16世紀にスペインがアメリカ大陸を侵略した際、このウイルスを持ち込み、奴隷労働とあいまって先住民人口が激減する不幸な事態となった。W.H.マクニールは、エルナン・コルテスが1521年に600人弱の部下で数百万の民を擁するアステカ王国を軍事的に征服したのみならず、文化的、精神的にも征服しえたのは、コルテス一行が持ち込んだ天然痘ウイルスによってアステカ王国の首都で天然痘が猛威をふるっていたにもかかわらず、従来のアステカの事物はそれに対しまったく無力であったことに起因するとしている。1533年のフランシスコ・ピサロによるインカ帝国の征服も、それに先だって中央アフリカから帝国内の現代のコロンビアの領域にもたらされた天然痘による死者が膨大なものであり、人口の60パーセントから94パーセントを失ったことによるとされる。1526年にはインカ皇帝のワイナ・カパックや宮廷の臣下たちの大部分が天然痘がもとで死んでいるが、後継者とされたニナン・クヨチもまた天然痘で命を落としてしまった。そのため王位をめぐる争いがアタワルパとワスカルの異母兄弟のあいだで起こった。ピサロは、そこに付け込んだのである。両帝国とも、馬や鉄器、火砲をもたない軍事的敗北の結果といわれるが、それ以前に天然痘が猖獗をきわめたことにともなう帝国側の戦闘力喪失が最大の要因であった。

 

17世紀前半には北アメリカ東部のインディアンで天然痘が流行している。また、18世紀のフレンチ・インディアン戦争では、イギリス軍により生物兵器としてインディアン殲滅を目的に使用された例がある。また、アメリカ独立戦争では、英国軍をカナダに追いつめてカナダがアメリカ合衆国領となる事態までとなったが、このとき独立軍に天然痘が流行したといわれる[28]。なお、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトも11歳のとき天然痘にかかり、その痕跡がいくつもあったといわれている。

 

1721年、オスマン帝国で発達したトルコの人痘接種法がヨーロッパに伝わったが、これは天然痘それ自体の発病の危険をともなうものであった。1798年、自らも人痘接種を受けたことのあるイギリスの医師エドワード・ジェンナーが牛痘にかかった者は人痘にもかからないという農婦の話を聞き、種痘を開発して8歳の少年に牛痘を接種した。
これが世界における予防接種のさきがけであり、一種の人体実験でもあった。ジェンナーは自身の幼い子どもにも予防接種をおこない、また、種痘の乾燥保存に成功した。これ以降は種痘の普及に伴い急速に天然痘の流行は少なくなったが、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンは顔にはっきりと痘痕が残っており、天然痘によるものとされている。なお、アメリカ合衆国で最初に接種を受けた人物のなかに第3代大統領のトマス・ジェファソンがいる。

 

天然痘は、1958年に世界保健機関(WHO)総会で「世界天然痘根絶計画」が可決され、根絶計画が始まった。1970年には西アフリカ全域から根絶され、翌1971年に中央アフリカと南米から根絶された。1975年、バングラデシュの3歳女児の患者がアジアで最後の記録となり、アフリカのエチオピアとソマリアが流行地域として残ったが、1977年、ソマリアのアリ・マオ・マーランを最後に天然痘患者は報告されておらず、3年を経過した1980年5月8日にWHOは根絶宣言を行った。天然痘ウイルスは現在、アメリカとロシアのバイオセーフティーレベル4の施設で厳重に管理されている。天然痘は、ヒトに感染する物の中では、人類が根絶した唯一の感染症である。

 

人びとは牛痘を人間に植え付けることに抵抗感をもち、普及には時間を要した。
日本でも、過去には定期的な大流行を起すことで知られていた。天平年間に遣唐使や遣新羅使を通じて侵入したと考えられる天然痘が西日本を中心に蔓延(天平の疫病大流行)し、737年(天平9年)、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した。聖武天皇が東大寺大仏を建立した背景にも飢饉や政治的混乱とならんで悪疫の流行があった。摂関政治が隆盛期をむかえた994年にも大流行して藤原道長の兄、藤原道隆、藤原道兼はともに天然痘のために死去したといわれる(ただし、前述のように麻疹とする説もある)。また、京都市百万遍に所在する浄土宗知恩寺(左京区田中門前町)は、京都に天然痘が大流行していた1331年(元弘元年)、後醍醐天皇の勅により百万遍念仏を行い疫病を治めたことから「百万遍」の寺号が下賜されたものである。

 

その後も歴史上の著名人物で天然痘に苦しんだ例は少なくない。「独眼竜」の異名で知られる奥州の戦国大名、伊達政宗が幼少期に右目を失明したのも天然痘によるものであった。儒学者安井息軒、「米百俵」のエピソードで知られる小林虎三郎も天然痘による片目失明者であった。16世紀に布教のため来日したイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、ヨーロッパに比して日本では全盲者が多いことを指摘しているが、後天的な失明者の大部分は天然痘によるものと考えられる。なお、江戸時代にあっては、疱瘡除けの神として、さかんに源為朝の肖像が描かれ、「疱瘡絵」(赤絵)と呼ばれた。これは、八丈島に疱瘡(天然痘)が流行しなかったのは、この島に流された為朝が疱瘡神を押さえ込む力があったためと信じられていたためであった。

 

また、源実朝、豊臣秀頼、吉田松陰、夏目漱石は顔にあばたを残し、上田秋成は両手の一部の指が大きくならず、結果的に小指より短くなるという障害を負った。孝明天皇の急死は幕末の政局に大きな影響を及ぼしたが、これも天然痘によるものであったと記録されている。天皇自身が当時かなり普及し始めていた種痘を嫌悪したために天然痘に対して無防備であったといわれているが、なお根強く暗殺説を唱える人もいる。蘭学者の緒方洪庵は幼少時に発症しており、のちに種痘の普及による天然痘対策に尽力した。これはやがて江戸幕府直轄の種痘所に発展し、のちの東京帝国大学医学部の前身となった。1955年の患者を最後に、日本では天然痘は根絶されている。

 

コレラはコレラ菌による感染症で、突然の高熱、嘔吐、下痢、脱水症状が起こり、その感染力は非常に強く、これまでに7回の世界的流行(コレラ・パンデミック)が発生し、2006年現在も第7期流行が継続している。最も古いコレラの記録は紀元前300年頃のものである。そののち7世紀の中国、17世紀のジャワでもコレラと思われる悪疫の記録があるが、世界的大流行は1817年に始まっている。
コレラの原発地はガンジス川下流のインドのベンガル地方、およびバングラデシュにかけての地方と考えられる。1817年にカルカッタで起こったコレラの流行はアジア全域とアフリカに達し、1823年まで続いた。その一部は日本にもおよび、のちに「文政コレラ」とよばれたものである。朝鮮半島経由か琉球経由かは明らかでないが、九州地方から東方向へひろがり東海地方にまでおよんだ。このときは箱根より東には感染せず、江戸での被害はなかった。
1826年から1837年までの大流行は、アジア・アフリカのみならずヨーロッパと南北アメリカにも広がり、全世界的規模となった。以降、1840年から1860年、1863年から1879年、1881年から1896年、1899年から1923年と、計6回にわたるアジア型コレラの大流行があった。この大流行の背景には、産業革命によって蒸気機関車、蒸気船など交通手段が格段に進歩し、また、インドの植民地化をはじめ世界諸地域が経済的、政治的にたがいに深く結びつけられたことがある。とはいえ、これほど短期間のうちに「風土病」から「パンデミー(世界的流行病)」へと一挙に広がって人類共通の病気となった例はめずらしい。

 

1831年、ドイツの哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルはコレラ禍のためにベルリンで死去しており、1832年にパリでコレラが流行した際には、辣腕政治家として知られたカジミル・ペリエ(フランス語版)フランス首相が死亡した。このとき、パリでは毎日数百人もの人びとが罹病し、1,000人を越える患者が出る日もあった。死亡率も高く、1日で800人もの人が命を失うこともあったという。

 

1832年4月、コレラが増えはじめたパリでは、だれかが毒を投げこんだという噂が飛びかい、毒殺犯人とみなされた人びとが民衆に暴行を受ける事件がおこっている。この事件では数名が殺害されている。コレラの流行した1830年代のヨーロッパでは至るところで毒殺説がささやかれ、なかには医師が疑われて殺害されたこともあった。

 

ロンドンでもパリでも、病気は道路と水路に沿って広がり、ことに貧民街での被害が著しかった。19世紀前半のコレラの流行は、19世紀初頭以来の急速な都市化の進んだ時期でもあり、ヨーロッパの大都市はどこも劣悪な衛生環境にあった。コレラの猖獗によって、感染症は「人間の病」である以上に「社会の病」であることを多くの人が痛切に感じたのであり、そのなかから、社会の健康を考える公衆衛生学や上下水道の整備や道路拡幅なども取り込んだ近代的な都市工学という学問分野が生まれた。また、イギリスの外科医ジョン・スノウはロンドンでのコレラ流行に際し、死亡者の生活状況を四分割表を用いてのクロス分析という統計学的な手法を用いて生活改善を提案し、これらの業績により「疫学の父」と称される。

 

日本では2回目の世界的流行時には波及を免れたが、3回目の流行は再び日本におよび、安政五カ国条約が結ばれた1858年から3年にわたって全国を席巻する大流行となった。いわゆる「安政コレラ」で、検証には疑問が呈されているものの、江戸だけで10万人が死亡したといわれる。このときの流行は長崎からはじまり、江戸で大流行して箱館にも広がった。手当としては、芳香酸と芥子泥(からしでい)を用いるのがよいとされた[26]。文久2年(1862年)には、残留していたコレラ菌により再び大流行し、56万人の患者が出て、江戸では7万3000人が死亡した。以後、明治に入っても2、3年間隔で万人単位の患者を出す流行が続き、1879年、1886年には死者が10万人台を数えた。
このうち、1879年の流行については、それに先だつ1877年から78年にかけてコレラの流行があったため、1878年8月、各国官吏・医師も含めて共同会議で検疫規則をつくったものの、駐日英国公使のハリー・パークスが、日本在住イギリス人はこの規則にしたがう必要なしと主張しており、翌79年の初夏にコレラが再び清国から九州地方に伝わり、阪神地方など西日本で大流行したものであり、この年、これに関連してヘスペリア号事件が起こっている。

 

ヘスペリア号事件とは、西日本でのコレラ大流行を受けた日本当局が、1879年7月、ドイツ汽船ヘスペリア号に対し検疫停船仮規則によって検疫を要求したところ、ドイツ船はそれを無視して出航、砲艦の護衛のもと横浜港への入港を強行したという事件であり、このためコレラは関東地方でも流行して、この年だけで10万9000人の死者が出たというものである[34]。この事件は、国民のあいだに、不平等条約を改正して領事裁判権を撤廃しなければ国家の威信は保たれず、国民の安全や生命も守ることができないという認識を広める契機となり、条約改正要求の高まりをもたらした原因のひとつとなった。日本がようやく海港検疫権を獲得するのは、1894年に陸奥宗光外相下でむすばれた日英通商航海条約などの改正条約が発効した1899年のことである。

 

なお、日本では、最初に発生した「文政コレラ」のときには明確な名前がつけられておらず、他の疫病との区別は不明瞭だったが、流行の晩期にはオランダ商人から「コレラ」という病名であることが伝えられ、それが転訛した「コロリ」や、「虎列刺」「虎狼狸」などの当て字が広まっていった。それまでの疫病とは違う高い死亡率、激しい症状から、「鉄砲」「見急」「三日コロリ」などとも呼ばれた。

 

 

1884年にはドイツの細菌学者ロベルト・コッホによってコレラ菌が発見され、医学の発展、防疫体制の強化などとともに、アジア型コレラについては世界的流行は起こらなくなった。ただし、アジア南部およびアジア東部においてはコレラの流行が繰り返され、中国では1909年、1919年、1932年に大流行があり、インドでは1950年代までつづいて、いずれも万単位の死者を出すほどであった。
一方、エルトール型コレラは1906年にシナイ半島(エジプト)のエルトールで発見された。この流行は1961年から始まり、インドネシアを発端に、発展途上国を中心に世界的な広がりをみせており、1991年には南米のペルーで大流行が発生したほか、先進諸国でも散発的な発生がみられた。1977年、日本でも、和歌山県下で感染経路不明のエルトール型の集団発生が生じた。また、1992年に発見されたO139菌はインドとバングラデシュで流行している。なお、2007年1月初め、コンゴ共和国の首都ブラザビルから500キロメートル離れた石油積出港ポアンノアーレにおいて、コレラの発生が確認された。

 

コレラの流行を防止するため、下水道の整備など大都市における公衆衛生政策が発達し、ゴミ箱が普及し、検疫体制が整備されて、その多くは現代にも引き継がれている。また、科学的な疫学も1854年のロンドンでのコレラ大流行において、ジョン・スノウが公衆の井戸水が原因であると指摘したことがはじまりである(後述)。コレラは反面、衛生的な近代都市の生みの親となったのである。

 

チフスはもともと、発疹チフスのときに見られる高熱による昏睡状態のことを、古代ギリシアのヒポクラテスが「ぼんやりした」「煙がかかった」を意味するギリシア語 typhus と表記したことに由来するといわれるが、長い間、発疹チフスと腸チフス、パラチフスの区別がなかった。

 

発疹チフスとはコロモジラミが媒介するリケッチアによる感染症で、高熱、せき、発疹が特徴である。人口密集地域、不衛生な地域にみられ、冬期、または寒冷地での流行が顕著である。1490年、スペイン兵がキプロス島から発疹チフスをもちこみ、ヨーロッパで流行し、1545年にはメキシコで流行した。
17世紀以降、ヨーロッパの王侯貴族や裕福な中・上級市民の間で頭髪を丸刈りにしてかつらをかぶる習俗が大流行した背景にはシラミ予防の意味もあったという。
1812年のナポレオンのロシア遠征の際にはフランス軍で大流行し、大勢の死者を出した。19世紀の発疹チフスの流行は、コレラとともに労働運動活発化の一因となり、各国は都市の改造や公衆衛生を徹底させるなどの都市政策をおこなった。第一次世界大戦下のロシアでは3000万人が罹患し、その1割にあたる人びとが死亡している。また、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺のための強制収容所内でも大流行した。

 

フランスの細菌学者シャルル・ジュール・アンリ・ニコルはフランス植民地のチュニス(チュニジア)において風土となっていた発疹チフスを研究し、病院に入院すると感染しない傾向がみられるから院内と院外の条件を比較して、患者の衣服に着目した。ニコルは1928年に発疹チフスの研究でノーベル生理学・医学賞を受賞している。

 

腸チフスパラチフスは、16世紀のイタリアの数学者でもあり医者でもあったジェロラモ・カルダーノが発見者といわれているが、これはともにサルモネラの一種であるチフス菌によるもので発疹チフスとは全く異なる条件下、異なる病原体が原因で起こるものであるが、症状が似ているため区別が遅れた。1836年にようやく両者の識別がなされて、別の疾患として扱われるようになった。

 

結核は、結核菌によって引き起こされ、全身の倦怠感、食欲不振、体重減少、37℃前後の微熱が長期間にわたって続く、就寝中に大量の汗をかくなどの症状をともない、咳嗽(痰をともなうこともともなわないこともある)が疾患の進行にしたがって発症してくる。かつては「不治の病」「死の病」「難病」とされ、「白いペスト」と呼ばれることもあった。
結核は太古より存在する病気として知られ、発掘調査で出土した紀元前5000年ころの人骨に結核の痕跡が認められるものがあり、2008年には紀元前7000年ころの結核痕跡をともなう2体の人骨がイスラエル沖で発見された。また、紀元前1000年ころのエジプト第21王朝のミイラには、骨の結核である脊椎カリエスの認められる遺体がある。2009年末、エルサレムで発見された1世紀前半の男性の骨から結核菌とらい菌のDNAが見つかり、イエス・キリストの時代のエルサレムの上流階級では結核がかなり流行していたことが確認された[37]。1972年に発見された中国長沙市郊外の馬王堆遺跡の1号墳に埋葬された紀元前2世紀の女性のミイラからは結核病変を確認しており、中国後漢末の武将で三国志の英雄曹操も死因は結核だといわれる。また、2006年に韓国南部の勒島(ヌクト)の遺跡から出土した若い女性の人骨の脊椎3か所にカリエスを発見した。ポーランドの音楽家で「ピアノの詩人」といわれたフレデリック・ショパンや『嵐が丘』で知られるエミリー・ブロンテも結核で亡くなっている。

 

日本における最古の結核症例は、鳥取県鳥取市に所在する弥生時代の考古遺跡青谷上寺地遺跡の発掘調査で検出した5,000体中の2点の脊椎カリエスの進行した人骨である。縄文時代の遺跡出土の人骨からは、結核痕跡が確認されていないので、現在のところ、日本列島における結核はアジア大陸から渡来した人びとによってもたらされたものと考えられる[37]。平安時代、清少納言は『枕草子』のなかで「胸の病」について書き記しており、紫式部の『源氏物語』でも紫の上が胸の病を患い、光源氏が悲しむさまが描かれている。神奈川県鎌倉市の由比ヶ浜南遺跡からは、1333年の新田義貞の鎌倉攻め(元弘の乱)の戦没者とみられる人骨が多数確認されているが(由比ヶ浜南遺跡の人骨は調査により合戦死のものではないことが判明している。同項目参照。合戦死と見られているのは稲村ケ崎の人骨)、このなかの1体よりカリエスにより変形した肋骨と結核菌DNAとを検出した。50歳前後の男性と推定されている。

 

結核は、産業革命後に「世界の工場」と呼ばれて繁栄したイギリスで大流行した。最も繁栄を謳歌していたはずの1830年ころのロンドンでは5人に1人が結核で亡くなったといわれている。当時の労働者は賃金が低く抑えられていたうえに1日15時間もの長時間労働が一般的であった。また、急激な都市への人口集中によってスラムが形成され、人びとは生活排水をテムズ川などの河川に投棄し、その川の水を濾過して飲料水とするなど、生活環境も劣悪であった。過労と栄養不足が重なり、抵抗力が弱まったことから結核菌が増殖し、非衛生的な都市環境がそれに拍車をかけたものと考えられる。

 

これは、一面では産業革命が各国へ拡大し、普及したことにともなってイギリス発で結核が広がることともなった。明治初年、日本からイギリスへの留学生がそこで結核にかかり、学業半ばで帰国したり、亡くなったりするケースも多かったのである。

 

日本では、明治初期まで肺結核を称して労咳(癆?、ろうがい)と呼んだ。新選組の沖田総司、幕末の志士高杉晋作はともに肺結核のために病死した。正岡子規も結核を病み、喀血後、血を吐くまで鳴きつづけるというホトトギスに自らをなぞらえて子規の号を用いた。陸奥宗光、石川啄木、樋口一葉、立原道造、堀辰雄、高山樗牛、国木田独歩、竹久夢二、長塚節、中原中也、新美南吉、梶井基次郎、瀧廉太郎、佐伯祐三、新島襄なども結核で亡くなっている。昭和天皇の弟でスポーツ振興に尽くした秩父宮雍仁親王の1953年(昭和28年)の死去も、死因は結核といわれている。

 

近代において、特に犠牲のひどかったのは、紡績工場ではたらく女工であった。細井和喜蔵の『女工哀史』にみられるように、ここでも長時間労働や深夜業による過労と栄養不足、集団生活が大きな原因となっているが、工場内では糸を保護するため湿度が高かったことも結核菌の増殖をおおいに助けることとなった。日本で結核による死亡者が最も多かったのは1918年であった。このとき、人口10万人あたり257人が亡くなっており、1991年には人口10万人あたり2.7人にまで低下したが長い間、日本人の「国民病」であった。また、第二次世界大戦前は、徴兵され、狭い兵舎で集団生活を送る若い男性に結核が蔓延した。1935年から1950年までの15年間、日本の死亡原因の首位は結核であり、「亡国病」とも称された。

 

日本では1889年に兵庫県須磨浦(神戸市須磨区)に最初の結核療養所が民間の手によって創設されたが、国立結核療養所官制の公布はようやく1937年になってからのことで、それによって茨城県那珂郡に最初の国立結核療養所として村松晴嵐荘(現在の国立病院機構茨城東病院)が営まれた。

 

結核については、徳富蘆花の『不如帰』、堀辰雄の『風立ちぬ』『菜穂子』、久米正雄の『月よりの使者』、トーマス・マンの『魔の山』など結核患者やそれをめぐる人間関係、サナトリウムでの生活などを題材、舞台にした小説も多い。
結核菌は1882年、細菌学者ロベルト・コッホにより発見され、1943年にはセルマン・ワクスマンとワクスマン研究室の学生であったアルバート・シャッツによるストレプトマイシンなどの抗生物質があらわれて、結核は完治する病気となって、患者はいったん激減した。しかし、近年、学校や老人関係施設、医療機関等での集団感染が増加しており、結核治療中の患者は日本だけで約27万人にのぼり、新たな結核患者が年間3万人も増加している。世界保健機関(WHO)の推計では世界人口60億人の3分の1にあたる20億人が結核菌に感染していると発表している。これは、抗生物質の効かない耐性結核菌の発生によっており、「菌の逆襲」とよばれることがある。また、後天性免疫不全症候群(AIDS)との結びつきが指摘され、「今や結核対策はAIDS対策でもある」と考えられるにいたっている。

 

インフルエンザは、1889年に大流行したとき、ドイツの元軍医でコッホの衛生研究所にいたリヒャルト・プファイファーが患者よりグラム陰性の細菌を分離することに成功し、1892年に「インフルエンザ菌」と名づけ、これこそがインフルエンザの病原体であると発表した。こののち、インフルエンザの病原体をめぐっては論争が繰り広げられたが、1933年に決着した。

 

鳥インフルエンザの一種と考えられるスペイン風邪は、1918年、アメリカ合衆国の兵士の間で流行しはじめ、人類が遭遇した最初のインフルエンザの大流行(パンデミック)となり、感染者は6億人、死者は最終的には4000万人から5000万人におよんだ。当時の世界人口は12億人程度と推定されるため、全人類の半数もの人びとがスペイン風邪に感染したことになる。この値は、感染症のみならず戦争や災害などすべてのヒトの死因の中でも、もっとも多くのヒトを短期間で死に至らしめた記録的なものである。
死者数は、第一次世界大戦の死者をはるかにうわまわり、日本では当時の人口5500万人に対し39万人が死亡、アメリカでは50万人が死亡した。詩人ギヨーム・アポリネール、社会学者マックス・ヴェーバー、画家エゴン・シーレ、劇作家エドモン・ロスタン、作曲家チャールズ・ヒューバート・パリー、革命家ヤーコフ・スヴェルドロフ、音楽家チャールズ・トムリンソン・グリフスが亡くなっており、日本でも、元内務大臣の末松謙澄、東京駅の設計を担当した辰野金吾、劇作家の島村抱月、大山巌夫人の山川捨松、皇族の竹田宮恒久王、軍人の西郷寅太郎などの著名人がスペイン風邪で亡くなっている。「黒死病」以来の歴史的疫病で、インフルエンザに対する免疫が弱い南方の島々では島民がほぼ全滅するケースもあった。

 

流行の第1波は、1918年3月に米国シカゴ付近で最初の流行があり、アメリカ軍の第一次世界大戦参戦とともに大西洋をわたって、5月から6月にかけてヨーロッパで流行したものである。第2波は1918年秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まって重症な合併症を起こし死者が急増した。第3波は1919年春から秋にかけてで、やはり世界的に流行した。日本ではこの第3波が一番被害が大きかった。
インフルエンザウイルスの病原性については、1931年にアメリカのリチャード・ショープが、ブタにおこるインフルエンザが、プファイファーの発見したインフルエンザ菌とウイルスとの混合感染によっておこることを確認し、1933年に、イギリスのウィルソン・スミスとクリストファー・アンドリュースたちが患者からインフルエンザウイルスを分離し、フェレットを用いた実験によって証明して、病原体論争はおさまった。

 

さらに、スペイン風邪の病原体の正体は、アラスカの凍土から1997年8月に発掘された4遺体から採取された肺組織検体からやがてウイルスゲノムが分離されたことによって、ようやく明らかとなった。これにより、H1N1亜型であったことと、鳥インフルエンザウイルスに由来するものであった可能性が高いことが証明された。つまり、スペイン風邪は、それまでヒトに感染しなかった鳥インフルエンザウイルスが突然変異し、受容体がヒトに感染する形に変化するようになったことが原因と考えられる。したがって、当時の人びとにとっては全く新しい感染症(新興感染症)であり、スペイン風邪に対する免疫を持った人がきわめて稀であったことが、この大流行の原因だと考えられるようになったのである。スペイン風邪におけるおもな死因は二次性の細菌性肺炎であったといわれる。

 

なお、アメリカ発であるにもかかわらず「スペイン風邪」と呼ばれたのは、当時は第一次世界大戦中であり、世界各国・各地域で諸情報が検閲を受けていたのに対し、スペインは中立国であったため、主要な情報源がスペイン発となったためである。一説には、スペイン風邪の大流行により第一次世界大戦終結が早まったともいわれている。

 

20世紀の100年間でインフルエンザのパンデミックは3度あった。上述のスペイン風邪、H2N2亜型ウイルスによる1957年のアジア風邪、H3N2亜型による1968年の香港風邪である。
アジア風邪では、世界で200万人もの人びとが死亡した。1957年の冬、中国の貴州に発生し、中国全土に広がった。中国の科学者は病原体の分離に成功したが、当時、中国がWHOのインフルエンザ関係機関に加わっていなかったため、その情報が他の諸国に伝えられたのは、流行から2か月も経過してからであった。このあいだアフリカや中南米に拡大し、欧米では夏にはあまり広がらなかったが秋に入り、世界的に流行した。日本での感染者は届出のあったものだけで98万3105人、死者は7,735人にのぼる。

 

香港風邪では、世界で100万人が死亡し、日本の死者は2,200人以上である。H3N2亜型に属する新型ウイルスであった。同時にH2N2亜型のものは姿を消した。現在の季節性インフルエンザの原因の1つである。その後、1977年にはソ連風邪がエンデミック(局地的流行)となった。

 

これまでパンデミックを起こしたインフルエンザウイルスは、いずれも鳥類に由来するものであり、しかも弱毒性のものであった。今後、発生が心配されているのはH5N1亜型の強毒性のものである。世界保健機関(WHO)の李鍾郁(イ・ジョンウク)元事務局長は「もはや新型インフルエンザが起こる可能性を議論する時期ではなく、時間の問題である」と述べており、2005年、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領は、新型インフルエンザ対策を優先度の高い国家戦略とすると表明し、国際的な協力体制の構築を各国によびかけた。

 

21世紀にはいり、2009年には新型インフルエンザの世界的流行があった。当初はメキシコおよびアメリカ合衆国での局地的流行であったが、2009年春頃から2010年3月にかけ、A型、H1N1亜型のインフルエンザウイルスによる豚インフルエンザとして世界的に流行した。WHOは2009年4月27日にフェーズ4を、2日後の4月29日にはフェーズ5を、6月11日にはフェーズ6を宣言した。これは、21世紀に入って人類が経験するインフルエンザ・パンデミックの最初の事例となった。日本では感染症予防法第6条第7項第1号において「新たに人から人に伝染する能力を有することとなったウイルスを病原体とするインフルエンザ」と規定され「新型インフルエンザ」と命名されている。

 

ポリオは、小児に発症が多かったことから「小児麻痺(しょうにまひ)」の名でも知られ、日本での正式名称は「急性灰白髄炎」である。
ポリオの名称は、英語の poliomyelitis の前半部分(灰白部)に由来しており、中枢神経である脳灰白部と脊髄に病変が生じるところからの名称である。ポリオは、ピコルナウイルス科エンテロウイルス属のポリオウイルスを病原体とする感染症であり、脊髄神経の灰白質をおかすため、はじめの数日間は風邪をひいたような症状があらわれるが、その後急に足や腕がまひして動かなくなる病気である。
ポリオウイルスに感受性があるのは霊長類だけであり、自然宿主はヒトだけである。ポリオについても、その歴史は古く、エジプト第18王朝(紀元前1403年−紀元前1365年)の石碑に、片足が萎縮して杖をついた人物が刻されているが、これが症状からみてポリオであろうと推定されている。日本では、北海道洞爺湖町の縄文時代後期の考古遺跡入江貝塚から出土した女性人骨にポリオ痕跡の可能性が高い遺体が認められるが、日本へのポリオ流入は明治以降であるという有力な反論があり、定説には至っていない。

 

ポリオの医学的な記載は、1840年のドイツのシュトゥットガルト郊外カンシュタットの医師ヤコブ・ハイネ(ドイツ語版)によるものがはじめてであり、1887年にはスウェーデンの小児科医オスカル・メディン(スウェーデン語版)によってポリオのストックホルムでの流行について詳細な報告がなされたことより、ヨーロッパでは当初「ハイネ-メディン病」と称されたこともあった。ポリオは、19世紀後半から20世紀前半にかけて欧米諸国で大流行し、第二次世界大戦後は世界的に流行した。
ポリオウイルスに感染したとしても、後遺症として麻痺がのこるのは100分の1ないし1,000分の1といわれている。ポリオ患者として知られる著名人は数多く、そのなかで麻痺がのこったのは不運なケースといえるが、その麻痺を克服して成人後に大きな業績を成し遂げた人も多い。たとえば、日本社会党委員長であり横浜市長も経験した飛鳥田一雄、ニュートリノの研究で2002年のノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊、1960年ローマオリンピックで女子短距離3種目(女子100m、200m、400mR)で金メダルを獲得したウィルマ・ルドルフなどが知られる。

 

日本では、1910年代、1920年代、1930年代後半から1940年代後半にかけて、および1960年(昭和35年)に流行している。とくに1960年春の北海道にはじまった流行では、全国で5,606人と日本史上最大の患者届出があった。このとき、ワクチン接種を求める世論が大きな高まりをみせ、ジョナス・ソークによるアメリカ製の不活化ワクチンか、ソビエト連邦製の弱毒の生ワクチンの投与しか解決のみえない状況となった。効果においては生ワクチンの方が優れているが、当時の日本では生ワクチンの安全性は確認されておらず、国産の生ワクチンもなかった。また、輸入するとしても冷戦のさなかにあって西側に属していた日本は乗り越えるべき課題も多かったのである。
そうしたなか、第2次池田内閣の厚生大臣古井喜実は自由民主党内の反対を抑えて「責任は大臣が持ちます」と宣言して1961年(昭和36年)6月21日にソ連(および一部カナダ)からの緊急輸入が決定された。7月17日、テレビ司会者の高橋圭三(NHK)が生ワクチンを飲むすがたが放映された。実は、このポリオ根絶キャンペーンの真の立役者はのちに日本社会党の国会議員となった上田哲であったという。NHK社会部の放送記者として活躍し、その後NHKの労働組合である日放労の委員長となった上田は、このときポリオ根絶をめざした「上田プラン」を唱えてNHKを動かし、厚生省を動かしたという。生ワクチン輸入については、のちに松山善三監督の映画「われ一粒の麦なれど」の主題ともなっている。
日本では、こうして世界にさきがけて徹底した全国一斉投与をおこなって、それが実をむすんで患者数は1963年(昭和38年)には100人以下に激減して、1981年(昭和56年)以降は集団的なポリオの発生は確認されていない。日本政府は2000年(平成12年)にWHOに対し、ポリオ根絶を報告している。

 

なお、ポリオ患者として有名であった人物に第32代アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトがいる。1921年にポリオに罹患したF.ルーズベルトはみずからの麻痺症状の治療のために、1926年にジョージア州ワームスプリングスの温泉地に土地を購入して別宅を建てた。しばしば同地に滞在したため、別宅は「リトルホワイトハウス」と呼ばれ、1945年4月にそこで死去している。
F.ルーズベルトは、みずからの障害体験から障害者支援には積極的で、大統領就任後、ポリオ対策のために国立小児麻痺財団(the National Foundation for Infantile Paralysis)を設立して募金活動をおこない、ワームスプリングスには彼の死後、ルーズベルトポリオ病院が建てられた。ただ、かれ自身は日常生活において車いすを用いていたものの、その姿をマスメディアにみられるのを嫌い、車いす姿の写真も2枚しか残っていない。また、メディア側もあえてそのことを報道しなかったため、当時のアメリカ国民は大統領に麻痺があったことはほとんど知らなかったという。

 

2003年、F.ルーズベルトは実はポリオではなく、神経疾患であるギランバレー症候群であったという記事がアメリカ合衆国の医学情報誌に報告された。それによれば、39歳という壮年に達してから発症したことや、彼の症状8項目のうちの6項目がギランバレー症候群に特徴的な症状を示し、ポリオを示す症状は2項目にすぎなかったことから、ギランバレー症候群であった可能性が高いということである。ワームスプリングスのポリオ病院も、こんにちではリハビリテーション施設に変わっている。

 

近年、日本ではポリオ感染による障害者の数が増加し、深刻な問題となっている。生ワクチンの投与は、上述のように、大流行時の緊急使用には際だった効果を有した実績があるものの、このワクチンによる免疫獲得率の低い世代が親になったこんにち、生ワクチンがむしろ小児麻痺の主な原因となっており、生ワクチンに使用されたウイルスが強毒化する事態も発生している[47]。被害者からは医療行政への抗議とともに不活化ワクチンへの切り替えを求める声が出ており、2012年4月19日、厚生労働省の薬事・食品衛生審議会医薬品第二部会が開催され、承認申請が行われている不活化ワクチンのうち1種については製造・販売を行なっても問題ないとの結論が出て、同年9月1日よりポリオの定期接種は生ワクチンから不活化ワクチンに切り替えられた。

 

エボラ出血熱は、1976年6月のスーダンのヌザラ(Nzara)という町で倉庫番を仕事にしていた男性が急に39度の高熱と頭や腹部に痛みを感じて入院、その後、消化器や鼻から激しく出血して死亡したことを最初の確認例とする新興感染症である。そののち、その男性の近くにいた2人も同様に発症して、これを発端に血液や医療器具、エアロゾルを通して感染が広がった。最終的にヌザラでの被害は、感染者数284人、死亡者数151人というものだった。
この最初の男性は、ザイール(現コンゴ民主共和国)のエボラ川付近の出身で、森に深く入って炭焼き小屋に長く生活したことがあり、病原菌との関係が考えられるため、この病気を引き起こしたウイルスの名前を「エボラウイルス」と名づけ、病気も「エボラ出血熱」と名づけられた。症状は全身の出血のほか、臓器の壊死もある。その後エボラ出血熱はアフリカ大陸で10数回にわたって突発的に発生・流行しており、感染したときの致死率は50パーセントから89パーセントの範囲にあって非常に高く、また有効な治療法もないことから非常に怖れられている。ただし、血液感染のため、患者の血液に触れなければ二次感染はおこらず、アフリカにおいては病院の注射器や看護者を通じて感染が広がったものである。
この感染症は、熱帯雨林の開発によって人が新たな病原体に遭遇したもので、ガボンではチンパンジーから感染したといわれているが、ウイルスの自然宿主はまだわかっていない。2005年12月、ガボンの医学チームは、感染するが発病していないというコウモリを発見しており、宿主の可能性を報告した。
エボラ出血熱は2014年7月以降、リベリア、シエラレオネ、ギニアなど西アフリカ諸国で大流行し、死者は1,000名を超えた。8月上旬には、この感染症の治療にあたった医療チームの外国人医師も感染した。医療チームの米国人2名に対して投与された実験用の抗体治療剤「ZMapp」に効果がみられたことから、この未承認薬の患者への投与承認を求める申請がWHOになされた。また、この治療剤はアフリカ人医師にも投薬された[51]。 一方、フランスでは、リベリアで医療活動中に感染して帰国した女性看護師に、日本の富士フイルムが開発したインフルエンザ治療薬・ファビピラビル(販売名・アビガン錠)が9月から投与され、快方に向かっていることが分かった。この治療薬は、エボラ出血熱に対する承認は得ておらず、エボラ出血熱の患者への投与は初めてだった。

 

1981年6月にアメリカのロサンゼルスに住む同性愛男性4人に初めて発見され症例報告された新興感染症である。ただし、これはエイズと正式に認定できる初めての例で、疑わしい症例はすでに1950年代から報告されており、中部アフリカ各地などで「痩せ病」(slimming disease)という疾患群が報告されていた。1982年7月、この病気はAIDS(後天性免疫不全症候群)と名づけられ、1984年にはエイズウイルスが発見された。1981年の症例報告後、わずか10年程度で感染者は世界中で100万人にまで広がった。
日本では、1986年(昭和61年)の松本事件、1987年(昭和62年)の神戸事件・高知事件など「エイズ・パニック」と称される一連のパニックが引き起こされた。これは、行政当局や医療機関のあり方に問題がなかったわけではなかったが、むしろパニックに仕立て上げていったのはマスメディアであった。アメリカでエイズが広がり始めた当初、原因不明の死の病に対する恐怖感に加えて感染者に同性愛者や麻薬常習者が多かったことから、感染者に対して社会的な偏見が持たれることも多かった。アメリカは、「エイズ・パニック」を体験した最初の国であった。
現在は、病原体としてヒト免疫不全ウイルス(HIV)が同定され、異性間性行為による感染や出産時の母子感染も起こりうることが広く知られるようになった。しかし、未だこの病気に対する知識の不足から来る差別や偏見がみられる。
日本では、おもに血友病の患者に対して非加熱製剤を治療に使用したことから、多数のHIV感染者およびエイズ患者を生む薬害エイズ事件をひきおこし、大きな社会問題となった。それ以外でHIVに感染する可能性は、HIV感染者との性行為であるため、相手がHIVに感染していないことが確実でなければ性行為をおこなわないか、あるいはコンドームを用いて感染の可能性をなくすことが大切である。また、早期に治療を開始するためには、HIV抗体検査が必要である。
エイズは、アメリカをはじめ世界各地で患者や感染者が増加しており、現代医療の大きな課題といえる。各国でエイズ予防キャンペーンが繰り広げられている。

 

単細胞の寄生虫であるマラリア原虫が赤血球に寄生して起こる感染症で、発熱や悪寒、頭痛、吐き気などの症状をともなう。熱帯・亜熱帯地域に多い感染症である。日本ではおこりとも呼ばれた。
歴史的には、古代ローマ帝国の軍人ゲルマニクス、10世紀の神聖ローマ帝国の皇帝オットー2世、平安時代末期の平清盛、堀河天皇、ルネサンス期の文豪ダンテ・アリギエーリ、室町時代の僧一休宗純、日本陸軍の諜報員であった谷豊(ハリマオ)、イタリア出身の自転車選手ファウスト・コッピなどはマラリアによって死去した人物として知られている。「東方遠征」で有名な古代マケドニア王国の王アレクサンドロス3世(大王)も従来はマラリアによる死亡と考えられてきた(近年、死因をマラリアではないとする学説が登場している。詳細は「ウエストナイル脳炎」節を参照のこと)。
第二次世界大戦中に沖縄県、とくに八重山諸島で発生した集団罹患は「戦争マラリア」と呼ばれている。

 

カの中でハマダラカの一部の種だけが病原体を媒介する。メスのハマダラカが感染者の血液を吸い、別の人を刺すことによって広がる。効果的なワクチンはないが、抗マラリア薬で治療できる。アフリカにおいては、現在、エイズ、結核と並ぶ3大感染症のひとつであり、視覚や聴覚を失うなどの後遺症で悩む人も少なくない。感染者は毎年3.5億人から5億人にかけてと推測され、アフリカでは子どもの主要な死因のひとつになっている。
2008年3月にマスメディアに流れた情報によると、ケニア、ウガンダ、タンザニアにまたがるアフリカ大陸最大の湖ヴィクトリア湖は、年々水位が下がっており、係留していたと思われるボートが陸に上がってしまったり、湖岸であった箇所には幅10メートルないし20メートルの草地が続いていたという。NASAなどの衛星観測データは、ヴィクトリア湖の水位がピークの1998年にくらべ1.5メートルも低下しており、1990年代の平均と比べても約50センチメートル低くなっていると伝えている。その原因としては、降雨量の減少と下流にあるダムへの過剰な流出が考えられている。干上がりかけた水たまりにハマダラカのボウフラ(カの幼虫)が泳ぐなど蚊の繁殖に好適な水域が広がり、従来はマラリアが非流行地だったケニア西部の高地にも多発する傾向が顕著となっている。
また、地球温暖化の影響でハマダラカが越冬できる地域が広がったことにより、感染地域が広がる危険性についても指摘されている。
日本もマラリア対策に協力しているが、そのひとつに伝統的な蚊帳づくりがある。
ウエストナイル熱・ウエストナイル脳炎と日本脳炎[編集]
ウエストナイル熱の病原体である西ナイルウイルスは、フラビウイルス科に属し、その1属である狭義のフラビウイルス属は、デングウイルス(DEN)、日本脳炎ウイルス(JE)、ダニ媒介性脳炎ウイルス(TBE)、黄熱ウイルス(YFV)の4グループに分類され、そのうち、日本脳炎ウイルスのグループを構成するのは西ナイルウイルス(WN)、セントルイス脳炎ウイルス(SLE)、マレーヴァレーウイルス(MVE)、クンジンウイルス(KUN)、そして狭義の日本脳炎ウイルス(JE)の5ウイルスである 。

 

ウエストナイルウイルスは、その名のとおり西ナイル地方(ナイル川の西)で見つかった。19世紀末、イギリス領スーダン(英埃領スーダン)南部の白ナイル川西岸地域を西ナイル地方と呼んでいたが、この地方は一時期ベルギー領コンゴに属し、1912年にはイギリス領ウガンダに編入されて西ナイル州とされた。西ナイルウイルスは、1937年、黄熱の研究者がウガンダの西ナイル州の女性の熱病患者から単離したウイルスである。
従来、日本脳炎ウイルスグループにおいては、世界地図上でのみごとな地理的棲み分けがなされていた。狭義の日本脳炎ウイルスがインド以東の東アジア・東南アジア、マレーヴァレーウイルスが一部の東南アジア、クンジンウイルスがオーストラリア、セントルイス脳炎ウイルスがアメリカ大陸、そして西ナイルウイルスが発見地アフリカのほか、オセアニア、中東、中央アジア、西アジア、ヨーロッパの各地である。

 

このような地理的棲み分けに対し、異変が生じたのは、1999年8月23日のことであった。アメリカ合衆国ニューヨーク市クイーンズ区内の病院の内科医が2例の脳炎患者症例を報告し、その後、市保健局の調べによって他に6例の脳炎患者をクイーンズ区内で確認した。ヒトにおける脳炎の流行に相前後して、ニューヨークでは大量のカラスが死亡していた。9月7日から9日にかけてはブロンクス動物園(ニューヨーク市ブロンクス区)で2羽のフラミンゴと、ウとアジアキジそれぞれ1羽の死亡が確認された。
当初、ヒトや鳥類の死亡はセントルイス脳炎ウイルスによるものと診断された。しかし、その後、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)の調べで、ヒト、トリ、蚊より分離されたウイルスは西ナイルウイルスであることが判明した。従来、西ナイルウイルスはアメリカ大陸にはまったく存在しないと思われていたので、この事実は米国全土に衝撃をあたえた[56]。
以後、2010年現在までアメリカ全土で西ナイルウイルスが見つかっている。このウイルスを病原体とするウエストナイル熱・ウエストナイル脳炎の最多患者数を記録した2003年には、合衆国だけで患者9,862人、死亡264人が報告されており、この年はさらに隣接するカナダ、メキシコ両国への広がりも確認された。媒介する蚊は、トビイロイエカなどアカイエカの仲間を中心に13種(2009年にはさらに増加して60余種)、中間宿主である鳥類ではカラス、ブルージェイ、スズメ、タカ、ハトなど220種以上におよぶ種から西ナイルウイルスが分離された。
「マラリア」節でふれたように、従来、紀元前323年6月10日にメソポタミアのバビロンで死去したマケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王)は、その高熱という症状やインドからの帰還での死という地理的要素から、古来、死因はマラリアであると考えられてきた。しかし、2003年、アレクサンドロスの死は西ナイルウイルスによるウエストナイル脳炎ではなかったかという学説が登場した。
その根拠は、古代のバビロンが現代の西ナイルウイルスの流行する分布域に属していることのほか、1世紀から2世紀にかけて活躍したギリシア人著述家プルタルコスの『対比列伝』(「プルターク英雄伝」) のなかの以下のような記述である。
アレクサンドロスがバビュローンに入ろうとしている時に、(中略) 城壁のところまで行くと、多くのカラスが喧嘩をして互いにつつきあい、その内幾羽かが大王の足元に落ちた。
公的な記録によれば、アレクサンドロス大王は高熱を発してずっと熱が下がらず、そのあいだ激しくのどが渇いて葡萄酒を飲み、うわごとがはじまって、発熱後10日目に亡くなったといわれる。これらの症状は、ウエストナイル熱やウエストナイル脳炎の症状と矛盾しない。
動物媒介性の感染症の新たな出現や伝播は、飛行機や船による人類や文物の大量移動を基礎として、たとえば近代化・工業化や地球温暖化などによって媒介動物である蚊の生息条件が変化して分布域が変動・拡散し、また、その宿主の生息域が変動するなどの事象によっており、「感染症の生態学」と呼ぶべきひとつの研究領域が成り立つような条件を生じさせているが、他方では、アレクサンドロスの死因のように、過去にさかのぼって史実の解釈さえ再検討の俎上に乗せる可能性を有しているのである。

 

日本脳炎(Japanese encephalitis)は、日本脳炎ウイルスによる脳炎であり、日本や東アジア、東南アジアを分布域とする。
感染者の発症率は0.1パーセントから1パーセントと推定されており、そのほとんどが不顕性感染である。日本での媒介者は主としてコガタアカイエカといわれるが、熱帯地域では他の蚊も媒介する。潜伏期は6日ないし16日間とされ、高熱を発して、痙攣や意識障害におちいる。発症してからは対症療法にたよるしかない。発症した場合の致死率は10ないし20パーセント程度と推定されるが、発症者の半数以上は脳にダメージを受け、脳障害や身体の麻痺などの重篤な後遺症がのこる。
1954年(昭和29年)、日本では不活化ワクチンの勧奨接種が開始され、1965年(昭和40年)には高度精製ワクチンの使用がはじまった。日本での患者は、1967年(昭和42年)から1976年にかけての積極的ワクチンの接種によって、劇的に減少したといわれている。

 

日本住血吸虫症は、日本・中国・フィリピン等でみられる住血吸虫症の一種で、ミヤイリガイ(オンコメラニア)という巻貝を中間宿主として成長した寄生虫(日本住血吸虫)が経皮感染によってヒトやウシ、ネコなどに感染することによって発生する感染症である。日本では特に山梨県下で「地方病」と称されて地域特有の奇病と見なされ、古くから甲府盆地底部一帯が国内最大の罹病地域として知られてきた。1904年に桂田富士郎が甲府市でこの寄生虫を発見し、1913年に宮入慶之助と鈴木稔が佐賀県鳥栖市において、寄生虫の中間宿主がオンコメラニアであることを発見したため、病名に「日本」の名が付されることとなった。
中国湖南省長沙市の前漢代の墳墓である馬王堆遺跡のミイラから日本住血吸虫の生活痕跡を検出したことから、中国において、この感染症の流行はきわめて古くからのものであることが確かめられている。
中国では、1950年代初頭、四川盆地をふくむ長江流域や広東省、福建省、雲南省など広汎な地域で日本住血吸虫症の流行が顕在化し、患者数は約3200万人にのぼったと推定される。中華人民共和国では、建国以来、大衆動員によって古いクリークを埋め立て、新しいクリークを開削する方法によってオンコメラニア対策が採られ、1958年には、江西省余江県での成功にちなんで、当時の中国共産党の指導者毛沢東は「送瘟神(瘟神を送る)」と題する漢詩をつくっている。
日本住血吸虫症は、こんにちでも中国やフィリピンを中心に年間数千人以上の新規感染患者が発生しているが、日本では1978年に発生した山梨県の罹患者を最後に新規感染者が確認されておらず、1996年には山梨県知事の天野建によって「地方病終息宣言」が出された。

 

20世紀にはいると、次々と新しいウイルスが登場したが、SARSコロナウイルス(通称SARSウイルス)は21世紀に見つかったウイルスであり、それによる感染症は重症急性呼吸器症候群(SARS)と呼ばれる。高熱、咳嗽、息切れ、呼吸困難、低酸素血症あるいは肺炎などの症状をともなう。
2002年11月16日に中華人民共和国の広東省で40歳代の農協職員が発症した例が最初とされたが、広州市呼吸病研究所は最初の患者は7月にさかのぼると発表している。11月の発症後、中国政府はこの疾患が広まらないよう対処するいっぽう、世界保健機関(WHO)にこの情報を知らせたのは2003年2月であり、自国の名誉と信用をまもるため報道を規制した。秘密にした結果、国際的な対応が遅れ、被害を拡大させてしまったため、中国政府はのちにこのことを謝罪している。
2003年4月3日、日本政府はSARSを新感染症として取り扱うことを発表、さらに4月17日、原因が判明したため指定感染症へ切り換える方針を発表した。4月上旬、SARSが大問題としてメディアで取り扱われている頃、中国政府の公式方針は変わったが、北京の軍病院で実際の患者数より少なく発表していたのが判明したのもこの頃である。国際世論の強い圧力ののち、中国政府はWHOなどの国際公務員がこの件に関する調査をおこなうことに同意した。これにより、過度の分散、形式主義、コミュニケーションの不足など、中国医療制度の古い体質が暴かれた。4月下旬、中国政府は患者数のごまかしが医療制度上の問題であることを認め、蒋彦永博士は中国政府のもみ消しを暴露した。こののち、北京市長や保険局長を含む多くの人が解任され、ようやくSARS調査と予防に向けた効率的で透明なシステムがつくられるようになった。
2003年7月5日にWHOはSARS封じ込め成功を発表した。最終的な罹患数は世界30ヶ国の8,422人が感染、916人が死亡した(致命率11%)。

 

2012年に発見されたMERSコロナウイルスはヒトコブラクダを感染源として、ヒトに感染すると重症肺炎を引き起こした。2012年9月以来、2020年1月現在も流行中である。
2013年5月15日、サウジアラビアの病院の院内感染で「ヒト - ヒト感染」が初めて確認された。2015年韓国でのアウトブレイクでは186人が感染し、36人が死亡した。2019年にもサウジアラビアで14人が感染し、5人が死亡した。
2019年11月までに診断確定患者は2494人、死者858人、約27ヶ国に感染例が波及している。特別な治療法やワクチンはない。

 

新型コロナウイルス (2019年-)
2019年12月、中国湖北省武漢市から感染が始まった新型コロナウイルス (SARS-CoV-2) による疾患はCOVID-19と呼ばれる。
2020年2月現在、東アジアを中心に東南アジア、中東、ヨーロッパなど感染拡大が続いている(国・地域毎の2019年コロナウイルス感染症流行状況)。

 

 

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